(――…?)
微かに感じた違和感に
ドクター・キリコは首を傾げた。
その日は――依頼人の所に行くと、商売敵――若しくは不倶戴天の敵とも言える黒い医者と鉢合わせ、
何時もの様に皮肉と罵詈雑言の応酬を繰り広げ、患者を横取りをされ…散々な1日だった。
気分転換にバーで飲んでいると見慣れた黒が目に入ってきた。
『――何だ、お前さん。随分と湿気た顔をしているな。』
『…生憎と誰かさんに依頼人を浚われたんでな。』
『フン、いい気味だ。』
多少の皮肉の応酬と共に黒い医者-ブラック・ジャック-が隣に座る――基本この2人、"仕事"絡みになると罵詈雑言の
嵐を撒き散らすが…それ以外の時は相応に世間話をするし、こうして静かに飲む事も多い。
暫くの間ちみちみとグラスを傾け、ふと隣を見ると――。
「おいおい…」
「…く――」
グラスを握り締めたまま、ブラック・ジャックがカウンターに突っ伏しており…それを見てキリコは天を仰いだ。
自分の知る限りコイツはうわばみであり、これしきの酒量でへたばる訳がないのだが…。
(――余程、疲れてたのかねぇ…?)
内心でそう思いながら突っ伏してもグラスを手放さないブラック・ジャックに、キリコは苦笑した。
「おい、ブラック・ジャック。」
キリコは声を掛けてブラック・ジャックの肩を揺するが…アルコールの影響なのか、目を覚ます気配が一向にない。
普段のキリコならこのまま放置して帰るのだが…何故かこの時は『このまま放って置くと不味い』と感じたので――
(――仕方ねぇな…)
内心でごちながらも、キリコは酔い潰れたブラック・ジャックを支え、精算を済まし店を後にする。
「貸し1つだぜ、先生?」
そう呟いて、キリコは自身が宿泊しているホテルへと向かったのだった。
「――ふぅ…」
ホテルの部屋に戻ったキリコは、ベッドにブラック・ジャックを転がしてひと息ついた。ここに戻って来るまで、人目は
痛かったが…お互いにカタギの容姿では無いので気にしない事にしている。
まあ――幸いだったのはブラック・ジャックが比較的軽かった事だろう…これで重かったりしたら、流石のキリコでも
諦めて其処ら辺の道端にでも放って帰った事だろう。
(あ〜あ…俺もお人好しだねぇ…)
何だかんだ言ってここまで彼を連れてきてしまった自分に、キリコは呆れて溜息を吐いた。
「――む〜…」
暫くすると――ブラック・ジャックの口からむずがる様な声を聞いて、キリコは睡眠の妨げとなっているであろう
コートとジャケットを脱がせた所で冒頭の違和感に戻る。
運んだ時に『軽い』とは感じたが…改めて見ると外套を剥いだブラック・ジャックは想像以上に細かった――それこそ
力を込めたら、折れてしまうんじゃないかと錯覚する程に。
(しかし…幾ら何でも細すぎやしないか?)
余りの細さにキリコが怪訝な顔をしていると、ふとブラック・ジャックの首元のリボンタイが目に入った。
「…これも取っておくか。」
キリコは『このままだと寝苦しいだろう』と判断し、リボンタイを解いてシャツの釦を外していくが…3つ程釦を
外した所で目を見開いた。
(な?!)
シャツの下にあったのは真っ白な包帯――それだけなら特に何も驚かなかったのだが…その包帯の下にあったのは
微かだがどう見ても"女"の柔肉だったからだ。
余りの衝撃にキリコが固まっていると、ブラック・ジャックの瞼が震え、目を覚ます――焦点の合ってない目で、キリコを
見上げたが…彼の手の中にあるリボンタイを認めた瞬間、一気に覚醒したのか飛び起きた。
「――見たのか…?」
「…すまん。」
非常に恨みがましい声を発するブラック・ジャックに、キリコはそれだけしか言えなかった。
暫し両者の間に重い沈黙が漂ったが…その沈黙を破ったのはキリコの方だった。
「1つ聞いて良いか、ブラック・ジャック」
「――何だ…?」
"ギロッ"と凄まじい目つきで睨み付けてくるブラック・ジャックに、思わず怯みそうになったキリコだが…意を決して
問い質した。
「――お前、"女"だったのか…?」
「…一応、生物学的には。」
その問い掛けにブラック・ジャックは、不機嫌そうに答えを返し…それを聞いたキリコは"道理で細い訳だ"と
納得したのだった。
「何でまた――男装してるんだお前さんは。」
疑問が解消された所で男装の理由を尋ねると、ブラック・ジャックは1つ溜息を吐いて話し始めた。
ブラック・ジャック曰く――開業当初はちゃんと女の格好をしていたが、度々依頼人の関係者等に舐められ、
うんざりしていたので試しに男装した所、意外としっくりと馴染んだのでそのまま通して来た――との事。
「唯でさえ"女"ってだけで舐められるのに、加えてこの童顔だ――男装でもせんとやってられない。」
「…成程。」
うんざりとした顔で言うブラック・ジャックに、キリコは"確かそうだ"と相槌を打った――こう言った商売柄、
外見が若いと舐められる事が多いが、威圧やハッタリも一つの武器になる事も多い。見縊られたら最後…
闇討ちにされるのがオチである事は自身もよく知っている。
"コイツも結構『厄介事』に巻き込まれるタイプなんだな"と思いながら、キリコは改めて目の前のブラック・ジャックを見る
――顔は傷跡と色違いの皮膚が目立つが、容貌自体はそんなに悪くないし…睫に至ってはバサバサと音を立てそうな程。
シャツから覗く肌にも傷跡が目立つものの、身体の線は細く…よくよく見ればちゃんと女性らしい丸みを帯びている。
(あれ?もしかして――)
"コイツどう見ても美人じゃないか"と思い当たったその時――ブラック・ジャックから"すまなかったな"と言われ、キリコは驚いた
――まさかそんな事を言われるとは思わなかったのだ。
「な、何がだ?」
「いや、お前さん――潰れた私を此処まで運んでくれたんだろう?」
驚くキリコを気にした様子もなく、ブラック・ジャックは普段の傍若無人な態度からは想像もできない程、穏やかな
表情を浮かべて言う――その表情を見てキリコの心の中で"何か"がストンと落っこちた。
(ちょ、え!?――マジで?!?)
突然"キュウ"と音がしそうな程疼いた胸に、キリコは戸惑った――この"疼き"の意味が分からない程、自分は若くはないし…
そんな感情は遠い昔に捨て去ったと思っていた。でも実際…自分は落ちてしまった、目の前の商売敵とも言える人間に。
「――?
キリコ、どうかしたのか?」
すっかり固まってしまった様子のキリコに、ブラック・ジャックは首を傾げたが…直ぐに"ふむ"と1つ頷いて自分のシャツに
手を掛け、それを見て我に返ったキリコは慌てて止めさせた。
「ちょっと待て、ブラック・ジャック――お前、何を?」
「いや、お前さん――未だ私が"女"だって信じてなさそうだから、いっその事服を脱いで見せた方が良いかと思って…」
「わ――!!それはやめろ!!」
真顔でとんでもない事を言ったブラック・ジャックに、キリコは"そんな事はしなくてもいい"と叫んだ――今そんな事を
されたら確実に自分の理性の糸はあっと言う間に千切れる事は目に見えている。唯でさえ、今の自分の脳裏には
彼女のあられもない姿が浮かんでいると言うのに。
慌てた様子のキリコに、ブラック・ジャックは首を傾げながらも…もそもそとシャツの釦を留めていき――そんな
ブラック・ジャックを見つめながら、キリコは頭を抱え込む。
(――コイツ、"男"ってもんを知らなさ過ぎるぜ…。)
そんな思いと共に、キリコは深い溜息を吐いた――どうやら死神の恋は、前途多難な様である…。
End.
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執筆中BGM:『Stayin' Alive』、『龍が泳ぐ時
すべては終わる』